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「うちの会社に
 〝バミューダトライアングル〟
 があるのって、知ってるか?」

先輩デザイナーの高野さんから妙な噂を聞いたのは、社内の部署替えで窓際の席に移った日のことだ。

「バミューダトライアングル? 
 って、あの、船とか消えちゃうとこですっけ」

「そう……。忽然とね」

それは昔、世界の不思議話を扱う児童書において、〝魔の三角海域〟として必ず筆頭を飾るトピックだった。フロリダ半島近隣の海域で、船舶、飛行機の数々が忽然と姿を消す。

乗員乗客全員の消失した船が発見された事件は中でも有名だ。途切れた船員の日記が見つかり、その文面もまた謎を呼んだ。

四次元説やブラックホール説も飛び出すこの手の真偽不明の怪しいネタは、僕が子供の頃大変なブームだった。

高野さんの世代はちょうどそのブームと青春期が重なる。だから本気で信じている節がある。

「それが?」

「このフロアに、あるんだよ」

僕は、五十メートル四方の広々としたオフィスを見渡す。

「……。どこにですか?」

すると高野さんは引っ越してきたばかりの僕の席を指した。

「ここ」

「……。変な話、やめてくださいよ」

「ここに座ってた谷山、磯口、綾瀬、それから加納。みんな消えたからね」

「それみんな、転職でしょ? そんなジンクス、刷り込まないでください」

「あいつらメールも電話も変えて全然連絡とれねぇの。この席には何か謎がある」

「そりゃ転職先での都合もあるでしょうし、そうなりますって」

「ほら、後ろ、見てみろよ」

促されて後ろを見る。背後には大きな窓がある。穏やかな天気。高層ビルの並ぶビジネス街が広がる、ここは二十一階だ。

「向かいのビル、見えるだろ?」

大きな幹線道路を一本隔てた先に、全面鏡面ガラス張り三十階建ての高いビルがあった。

「ここに座ってるとね、あのビルのちょうど真向かいの窓辺に、女の現れるのが見える。その女の姿を見ると、みんなある日忽然と消えてしまう……そういう噂なんだよ」

「……女?」

僕は改めて向かいのビルを見た。そのビルは今も言ったように、全面鏡面ガラス張りだから、当然、中は見えない。目にできるのは、その鏡面に映りこんだ僕らのビルだけだ。

「中なんか見えないじゃないですか」

「夜、出るんだよ、夜」

確かに向かいのビルは夜になってオフィスに蛍光灯が灯ると、鏡面効果が失われて内部が筒抜けとなった。

「……あの……
 〝出る〟って、
 やめてもらえませんか」

「お前も、気をつけたほうがいいぞ」

意外に真剣な顔で高野さんが顔を寄せた。じとっと油ののった額を間近に見て、僕は初めて少し薄気味悪くなった。
「オレもそれ、聞いたことある」

昼食時、カフェで同僚の津野田にその話を聞いてみると、彼は社内でささやかれる窓辺の女の噂を話し始めた。

彼によれば、深夜その女は現れ、こちらに向かって何やらメッセージを送ってくるのだという。その暗示にかかって、みんな消えてしまう……。

僕はあのビルの駐車場で、十年前事故があった話を思い出した。犠牲者もあったのだろうか。

「それってやっぱりあの……
 幽霊かな」

「いや。オレはそれ、
 幽霊じゃないと思う」

大柄な津野田は、貧乏ゆすりをぴたりと止めて、真剣に告げた。

「それ、妖精だよ」

パスタを口へ運ぶ僕の手は、さっきから止まりっぱなしだ。

「よ、妖精……?」

「ライン川で岩に佇む女に魅せられ船が沈むというローレライ伝説。あれと同じ。幽霊じゃない。今回のは妖精のカテゴリーだ」

そういえば津野田の引き出しにはびっしり少女マンガが常備されている。

「幽霊と妖精って、
 なんか違うんだっけ?」

「全然違う。妖精ってのは、
 もっとなんかこう、神秘的なもの。
 現代の神秘。害はない」

「でも窓辺の女見たら
 消えちゃうんでしょ?」

「大丈夫。悪いことにはならないよ。だって妖精だし」

 津野田は力をこめてフライにレモンを絞った。
それから一ヶ月ほど経ったある日、僕は習慣化してしまった残務で、深夜まで一人働いていた。

ところでここは、紙媒体とウェブを扱うデザイン会社だ。美大を卒業後すぐに入社して数年、僕はずっとウェブデザインの補欠的な役を担ってきた。

大学卒業前に彼女と別れたのは、タイミングが悪かったかもしれない。ほぼ男ばかりのこの会社にストレートで就職し、朝から晩まで休日も返上で働いて、しかも出会いがないとなれば、恋人なんてできるはずもない。同級生が結婚をするたび、僕にも焦りがつのった。

郷里で旧友に「ウェブデザイナーをやっている」と言えば、決まって「かっこいい」と声があがる。僕もその「かっこいい」世界に飛び込みたくて上京し、二浪までして美大に入った。なのに……。

社内で異動があってからの一ヶ月間、任される仕事は、ウェブコンテンツ用の文章執筆や校正、そして退屈なテキストの流し込みばかりだ。

一旦文章担当になってしまうと、テキスト周りの業務は僕に集中した。もはやデザイナーとしては不要、というレッテルを貼られたようなものだ。

もっとデザインの経験さえ積めば、絶対に伸びると自分では思っている。上司は何もわかってくれない。

その夜も執筆の仕事に追われ、深夜まで働いていた。窓際の席は太陽光の影響でパソコンモニターが見えにくい。特にこの席はビルの谷間からちょうど直射が差し込むため、以前から絵絡みの仕事では使われない場所となっていた。

勢い夜の方が仕事ははかどり、深夜型が定着した。会社の業績が上がり、小奇麗なオフィスに移ってからは仮眠スペースも無く、みな朝方を好んだため、この時間まで働くのは僕だけだった。堅めの会社が集まるこのオフィス街にも、ほとんど人は残っていない。

夜は深まり、どこのビルも暗く灯が落ちていた。僕は二時間ぶりに手を止めて、大きく伸びをした。朝までに完成させなければならない原稿は、まだ半分の出来だった。

眠くなっていた。まずい予感が脳裏でタンコブのように、気づかぬ内に大きく膨らんでいた。

闇に沈んだ向かいのビルに、ひとつの明かりが灯ったのは、その時だった。

真っ白に輝く窓が、闇の中にぽつんと浮かんだ。

僕はその光景に釘付けとなった。伸びをして、宙に差し出したままの両腕のことも忘れ、僕はじっと固まった。

やがて、一人の女が、光り輝く窓の中に現れた……。
カタリとでも音がすれば女が消えてしまうのではないかと、僕はゆっくりと腕を下ろしていった。

窓辺の女は、じっとこちらを見つめている。

女のいるビルまで幹線道路一本分を隔てているため、その仔細を知るには遠すぎ、ここからでは目鼻立ちも見て取れない。女はただじっとこちらを見つめたまま、いつまでも動かなかった。

夜の街でも眺めているのだろうか? 僕らのオフィスと同じ高さにあるその窓の中で、女は身じろぎもせず、明らかにこちらを見ていた。

いや……僕を見ていた。


「女は時々窓辺に現れて、しばらくすると、また窓辺から消えるんです」

「消えるって、どんな感じで?
 ふわっと?」

高野さんはさっきから僕の肩を掴みっぱなしで、僕を仕事から引き離し、目を覗き込んで聞いている。

「いや。歩いて」

高野さんからがくんと力が抜ける。

「歩いてかよ。透明になって消えるんじゃないの?」

「僕は原稿も全然手についてませんでしたから、とりあえず、女が窓際から去っている間に仕事しようって目を放したんです。しばらく女は窓際に現れなかったと思います。四時、過ぎてたかな。いつの間にかその窓の明かりが消えてて」

「写真は?」

「写真?」

「写真撮らなかったの?」

「撮ってません」

「お前なぁ……。写真撮っとけよそういう重要な場面は。意味ないじゃん」

「いや、僕は見たんです」

「見たって写真なきゃ
 意味ないんだよ」

高野さんは激しく落胆し、やっと僕の肩から手を放した。

そう言えば、世界の不思議がブームだったあの頃、その手の雑誌には真偽不明の証拠写真が並んでいた。

「でもお前、それ転職の
 口実にするなよ」

高野さんらしい釘の刺し方だった。


次に僕はカフェでランチ中の津野田にこれを話した。

「いい女だった?」

今度は僕が落胆した。

「妖精は美しいの。いい女なの。
 このあたりが
 霊と妖精の違いだよな」

と、彼は食後必ず食べるケーキに着手する。それにしても、

「今度オレも見に行きたいな」

と仄かに笑った津野田を見て、それだけは拒否せねばと思ったのはなぜだろう。

ただ一人、同僚の井村だけはこの話をまじめに解説してくれた。

「霊や妖精なんている訳ないじゃないですか。それはただの人間ですよ」

井村は、超常現象の類を全く信じないタイプだ。

「そういうのには
 必ず理由があります。
 バミューダトライアングルだって、
 メタンハイドレート説など、
 いろんな科学的な説が
 ありますから。 
 世の中の現象は
 二つに大別されます。
 理由のある現象と、
 理由のない奇跡的偶然です」
僕は数日間、同じ時間帯に女を見た。女の行動はまるで変わらなかった。窓辺に現れ、僕をじっと見つめる。そして去る。しかしまた突如として窓辺にやって来て、僕を見つめる。

そんなある夜、ひとつ驚くべき展開があった。

女は窓辺に立って、何か別の仕草を始めたのだ。奇妙な仕草だった。

が、どこかで見たことのある仕草だった。何だろう? しばらくして、それが〝手話〟の形であることに気がつき、僕は慄然とした。

女が語りかけてくると言っていたのはこれだったのだ。

女はいくつかの手話の形を使って、こちらになにやら言葉をなげかけてきた。

その意味を知ってはいけない。いつか映画で見た台詞が頭に浮かんだ。ライン川では女に魅せられると、船が沈むのだ。

「霊や妖精なんているわけがない」との井村の言葉がそれに続いた。

「写真を撮れ」という高野さんの顔も登場した。

「今度オレにその女、紹介しろ」と言う津野田のニタリ顔も浮かんだ……。

僕はくるりとパソコンに向き直る。「手話」で検索してみると、やはりネット上に簡単な手話辞典があった。

アルファベットそれぞれに、簡単なイラストがついていて、先ほどの手の形と照らし合わせることで、内容を読み取ることができた。

手話には、指文字というものがあって、女が意味しているのはどうやらそれらしい。アルファベットだ。

まず女が送ってきた文字
「H」……。

そののち、送ってきた文字は「E」。女は文字を送るたび、一度窓辺から去った。だから文字が送られるスピードは、とてもゆっくりとしたものだった。

次が「L」。
とそこまでで、僕は嫌な予感がした。

最後はやはり「P」だった。
女は僕に、「HELP」と送ってきたのだ……。助けて、と、女は僕に伝えているのだ。

僕も、見よう見まねで、指文字を送り返してみる。手話については無学だが、この指文字ならば、言葉を送ることができた。英語が出来ない僕が思いついた一言は、これだった。

「WHAT?」

ひとまず答えを待った。深夜、誰も居ない高層ビルの中空で、窓から窓へと手による言葉が飛び交う。

次に彼女が送ってきたのは……
「CITY」

街? 街がどうしたのだろうか。

女はさらに、
「COUNTRY」と送ってくる。
「助けて」「街」「田舎」……
つまり、ここを逃げ出したいという事だろうか?

「ESCAPE」
脱出という言葉を送ってみる。
すると、

「SEA」
という言葉が返ってきた。
海……。


僕は呪文にかけられたような気持ちになる。
なぜか、次の日から女は現れなくなった。単なる偶然か? 海へと旅立ったのか? それともやはりあの女は霊なのだろうか?

「霊も妖精もいるはずありません」

井村が言うように、彼女は普通の人間だろう。確かに、妖精のようにも霊のようにも見えない。幹線道路一本分の隔たりを持ってしか確認できないが、人間だと思う。

深夜までに及ぶ作業で、この高層ビル群の空中に、たった二人取り残され、ふと目があった男と女なのだ。

「やめとけ。
 それ以上深入りするのは。
 霊と手話で話したなんて、
 まずいだろどう考えても」

高野さんは僕の肩をぐいぐいもんでくる。


「手話かぁ」

カフェでは津野田が、そいつはまいったとばかりにうなり、

「妖精が手話とは……素敵だね」

と、デザートに手をつけた。

「今度オレも朝まで残るよ」

と津野田は指に付いたシロップを舐める。

「今、出ないから」

僕は間髪居れずに断った。


不在が続くと、僕の中で不思議と焦がれる気持ちが沸いてきた。

徹夜作業の中、僕はその女を待つように暗い窓の外を眺める事があった。ちょうど、彼女がそうしていたように。

彼女も遠い何かを待ちながら、ああして窓辺に立っていたのかもしれない。

窓の向こうに、記憶の奥にある海を見ていたのかもしれない。理由は分からないが……彼女の気持ちが今とてもよく分かる気がした。

いつしか、僕は〝窓辺の男〟になっていた。この窓辺の男をどこかのビルから誰かが見たら……。この魂が抜けたような男の、窓辺の立ち姿をどこかで見かけたとしたら……。

噂はそんな所から始まるのかもしれない。
それから数ヶ月が経ち、冬になった。

あれ以来、ずっと女は現れなかった。僕はというと、相変わらずいつまで経っても慣れないテキスト作業に振り回され続けていた。

ある夜、僕は会社近くの居酒屋で、先輩や上司達と飲むことになった。こうした飲み会になると僕はいつも空しい気持ちになる。

先輩は必ず才能について語る。才能とは磨かなければ光らないものだと。磨かないうちに、だいたいみな錆びて、使い物にならなくなる。このようにして時間は過ぎていく。

酒を飲んでそんな話を聞くたびに、僕は気分が悪くなり、逃げ出したくなった。

皆、一生の速度について語りたがった。高野さんもこの手の話が大好きだった。結論なんてない。延々、それについて話す間にも、高速で一生が過ぎていることに誰も気がつかない。

明け方近く、やっとお開きとなり、僕は路上で「先にどうぞ」と次々停まるタクシーを上司たちに勧めた。皆さっさと帰ってもらいたかった。もう一軒だと声を張り上げる高野さんを、なんとかタクシーに押し込んだ。

「忘年会はこんなんじゃ
 許さねぇからな」

と高野さんが言い残し、去って行った。これで全員返し終え、僕は心底ほっとした。誰もいないこの時間帯がいかに好きか、こうして邪魔されるとよく分かる。

もう既に午前四時を過ぎている。始発の電車も少し待てば走り出す時間帯だ。しばらく駅前で時間を潰そうと、僕は駅の方へと歩き出した。

その時。

僕は路上で、確かにあの女を見た気がした。

僕は慌てて視線を戻した。すでに道の角を曲がってしまったのか、女の姿は消えていた。

しかし間違いない。
あれは”窓辺の女”だ。

僕は女を追い、無理に道を渡ろうとした。幹線道路の横断歩道が赤信号になった。僕は手を上げ、走った。右折車が急停車する。頭を下げながら、僕は手を上げたまま横断歩道を一気に走り抜ける。幾筋の道を走り抜けた後、角を曲がる。

すると。

道の先で一人の女が、荒々しい僕の足音に振り返り、じっと立ち止まっていた。
街灯の下で深い影を落としながら、女は身動きせず、走りこんできた僕を不審そうに見ていた。

僕は今酔っている。しかも全力で走ってきたおかげで、息が荒く、治まる気配もない。

これでは異常者にも見え、普通の女性ならば、怖くなって逃げ出す所だろう。

しかし女はじっと僕を見つめたまま立っている。

幻の女……その正体を知ろうと、僕は一歩を踏み出す。

「あ……あの……」

とはいえ、一体何をどう聞けばいいのだろうか。はなから言葉につまずき、くじけかける。

「あなた……向かいのビルに……
 いますよね……」

女からは全く返事がない。

「僕……その向かいの……ビルにいる者です……ちょうど向かいのオフィスなんです」

そう伝えれば、もしかすると女は僕の正体に気付いてくれるのではないかとも思った。しかし、女は何も答えない。

見知らぬ男に対する女性の警戒心とは、こんなにも残酷で冷たいものなのだろうか。夜明け前の闇に、街灯を背にして立ちすくむこの女は、それともやはり霊なのか。僕は次の句に窮してしまった。

分岐点が僕の目の前にあった。「すみません」とあいまいに謝って踵を返すのが、いつもの僕が選ぶ道だろう。

でもこの時、酔っていたことが良かったのかも知れない。話題を一気に飛躍させる事ができたのだ。

幻の女の正体を知りたかった数十秒前の自分からすると、意外な一言が僕の口から飛び出した。

「あの、一緒に帰りませんか?」

生涯そんな言葉を吐くことは無いと思っていた。しまった、と心の中が燃えてくる。

「よく……遅くに帰られてますよね。……うちの会社からそちらのオフィスがよく見えるんで」

何を言っても彼女は黙って、ただ僕を見つめている。僕は次々に言葉つなぎ合わせ、どんどん早口になっていく。

「この辺、あんまり遅くまで残ってる人いないじゃないですか。だから、よく見てて」

とうとう彼女は僕の努力を見限って歩き出した。無意味に続けていた会話を僕は途端に中断する。彼女を引き留めるため、僕は思い切って聞いた。

要するに始めから聞きたかったその言葉が、窮地に背を押され飛び出してきた。

「いつだったか、あなた、僕に話しかけて来ませんでした?」

あれは僕に何が言いたかったのか? 
僕はとにかくそれを知りたかった。

助けて……街……田舎……
それから、海。
手話で高層ビルの窓から窓へ飛び交った暗号の意味を、僕は知りたかった。

一体何のつもりで僕に……あるいは僕でなければ誰に向かって、彼女はそのメッセージを送ったのかと。

彼女は立ち止まる。
ゆっくり振り返る。
そしてはじめて言葉を発した。


「あの指文字……見てましたか」
駅までの短い道を、僕は出来るだけゆっくり歩きながら、彼女とたどたどしく話した。

見知らぬ女に道で声をかけ、例えわずかでも話をするなんて、人生初めての事態だった。

二人には共通の話題が一つだけあった。それはお互いの仕事についてだ。彼女の会社は公的書物の出版社だった。

もともと文章を書きたくて入社したつもりが、文筆業務は年配の上司達に回り、若い彼女は窓際の席で簡単な挿絵や図表の作成を担当させられていた。

「デザイナーさんにも頼みますけど、
 売れない本や
 ウェブコンテンツとかって
 予算も少ないし、小さな絵を
 結構描かされるんです。 女だから
 可愛い絵が描けるだろうって、
 偏見なんですけどね」

もちろん、イラストレーターやフォトショップを時間かけて使えば、見よう見まねでマスコットくらいは描ける。

「ただ……」と彼女は溜息を籠めた。

「かわいらしい絵をね、
 何時間もかけて描いてると、
 私、なにやってんだろうって。
 ……文章書きたくて入ったのに」

僕はふと、うまくもない文章作りに何時間もかけて悩んでいる自分の事を思い比べた。

才能は磨かなければ光らない。
磨かないうちに錆びて、使い物にならなくなる。そうやって一生は過ぎていく。居酒屋で赤ら顔の高野さんが言っていた。

「年に何度か、教本関係の図解を
 描かされるんです。記号的な人間を
 描かなきゃいけないんですけど、
 それほんと大変で。
 人間は難しいです。
 だから夜一人、
 オフィスのガラスに映して、
 自分を見ながら描いてるんです。
 手話教本の単語集は
 特に難しくって……」

と、彼女は恥じらい半分に初めて笑みを浮かべた。

僕は、ネット上で見た手話辞典の挿絵を思い出していた。
何ヶ月もの間、僕らは残業後、待ち合わせてよく共に帰った。駅までの短い時間だったが、話は充実した。お互いの愚痴はとても面白かった。

絵を描きたいのに文しか書かせてもらえないデザイナーと、文章が書きたいのに絵しか描かせてもらえないライターの愚痴は、組み合わせを待っていた、対のブロックだった。話したい事は不思議と沢山あった。

彼女は教育関係に的を絞った記事を書きたがっていて、一方僕は、とにかく文章ではなく、それを飾るデザインをやりたかった。

彼女にはライター志望の友達がいた。僕も芽を出せないデザイナーで大学の同期を幾人か知っていた。皆で集まって何かやろうという話にたどり着くまで、半年ほどかかった。


ある夜の帰り道、彼女は僕にこんな話を打ち明けた。

「実は、うちの会社に
 ジンクスがあったんです……」

「ジンクス?」

彼女はうんとうなずく。


「挿絵担当になったらね、
 寿退社するって」


……そういえば、
うちにもジンクスがあった。


わが社の
バミューダトライアングル。



あの席に移って一年後、
僕は〝窓辺の女〟とともに、
忽然と消えた。


      ( 完 )